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江戸紀行/江戸の大名屋敷~藩邸と家屋敷、今に生きる大名屋敷

新年、あけましておめでとうございます
広報委員の木村でございます


本年もどうぞよろしくお願いいたします


さて、昨年末は2ヶ月に亙って「江戸城」についてお話ししましたが
今年最初の「江戸紀行」も武家ゆかりのあるもの


このお話から始めたいと存じます


江戸城の周囲、特に現在の大手町~日比谷、霞が関、虎の門あたりには
広大な「あるもの」が広がっていました


皆さん、よくご存知かと思います


そう「大名屋敷」ですね



「空から日本を見てみよう」というTV番組がありますが
さしずめ「空から江戸を旅しよう」という感じでご一緒しましょう♪


現在でも大手町には「大名小路」とその名を残していますが…


この幕末に近い時期、嘉永~文久年間に発行された江戸切絵図には
幕末に活躍した幕府方、討幕方、それぞれの大名の屋敷も載っていますね


切絵図中央、逆さに書いてある「松平肥後守」
後の京都守護職、新選組を用いた会津藩主・松平容保公ですね


右下の方にある常盤橋御門のそばは「松平越前守」
後に四賢公と言われた越前藩主・松平慶永(春嶽)公です


四賢公といえばもう一人、土佐藩主・山内豊信(容堂)公ですが
左下の鍛冶橋御門のそば、「松平土佐守」がその屋敷でした


松平姓を許されている外様大名は、松平と書いているので
ちょっと紛らわしいのですが、家紋とかで見分けられますね


山内家の家紋は「三ッ柏」、土佐出身の岩崎商会があやかりたいと使い
世界でも知られるトレードマーク「三菱」の元となった紋です


この地図で正面上「西御丸(西の丸)」の左下にあるのが西の丸の正門
現在の皇居正門鉄橋、いわゆる「二重橋」として、現在に伝わっています


それでは次に、赤坂・永田町あたりに行ってみましょう


右の方から新シ橋や虎之御門、そうです新橋や虎の門です
日比谷に至る現在の霞が関官庁街は、大名屋敷が立ち並んでいます


鍋島・南部・真田・上杉と皆さんにもお馴染みの大名家ですね
上杉家上屋敷前にあるのは櫻田御門、上屋敷は現在の法務省のあたりです


幕末、大老井伊直弼は現在の三宅坂にある彦根藩上屋敷から登城途中
この桜田門外で襲撃され、命を落としました


彦根藩上屋敷は現在の憲政記念館のあるあたり、あの僅かな距離で
幕末最大のテロ事件は起きたのですね、今なら車で1分と掛からない距離です


現在の警視庁・警察庁・国土交通省のあたりは「松平安芸守」上屋敷
「あれっ、三葉葵でないですね」


そうこちらも外様大名の雄、安芸広島藩・浅野家の上屋敷
家紋は「浅野鷹ノ羽」、忠臣蔵で有名な赤穂浅野家の本家筋の大大名です


ところで、先ほどから上屋敷とご案内していますが
「どうやって見分けるの?」 そう思いませんでしたか


答えはかんたん!
家紋が入っているのは「上屋敷」


大名における江戸での政庁で、藩主・正室が居住していた江戸での拠点
江戸城に近いことが多く、面積よりも交通至便な地が選ばれていました


「■マーク」がついているのは「中屋敷」

隠居した前藩主の隠居所や藩主世嗣などが居住していたようです
小藩の中には中屋敷を持たない藩もあったようです

「坂の上の雲」の主人公ゆかりの伊予松山藩久松家の芝三田中屋敷


中央右の松平隠岐守と書いてあるところ、現在のイタリア大使館です


「●マーク」がついているのは「下屋敷」

下屋敷の用途は多種多彩で、蔵屋敷もあれば、趣味の庭園や隠居所もあり
敷地面積の広く取れる郊外(と言っても山手線の内側ですが…)に多く点在
尾張藩などは30ヶ所近い屋敷地を持っていたとされています


また、川や海沿いに建てられた「倉庫代わり(蔵屋敷)」のようなものも
下屋敷に分類されていたようです


下屋敷は「実用型」と「趣味型」に大きく分かれていて


実用型としては、三田の薩摩藩上屋敷に隣接した「蔵屋敷(下屋敷)」


海沿いの蔵屋敷は…
勝と西郷による幕末の江戸無血開城談判の舞台となりました


趣味型としては、現在の「六義園」である大和郡山藩柳沢家の駒込下屋敷


一代で権勢を極めた柳沢吉保が隠居所として建てた大名庭園の極みですね
右上にある松平時之助は柳沢保申のことで大和郡山藩、最後の藩主です


もう一つ有名なのは、高遠藩内藤家の四谷内藤新宿下屋敷
そう、皆さんご存知の「新宿御苑」です


内藤駿河守と書いてあるところですね
前に玉川上水の項でも書きましたが、大木戸や玉川上水の水屋もあります


ところで、地図に書いてある大名や藩の名前
なんでこんなに「いろんな向きなのでしょうか?」


ヒント!
「広大な大名屋敷、一周するだけでも大変な距離ですよね」


そう、正解は「どちらが正面(正門)であるか」を表しているのです


その証拠に江戸城も「大手門が正面」なので逆さまに書いてあります


それでは最後に、赤坂・四谷方面に行ってみましょう
左下に見えるのは四谷御門、現在の四ツ谷駅ですね


右には広大な屋敷地は尾張徳川家の下屋敷、現在の上智大学一帯
そのお隣は譜代の名門、井伊家の下屋敷、現在のホテルニューオータニ
お向かいは紀州徳川家の下屋敷、現在の赤坂プリンスホテル跡地です


「紀尾井町」の由来ですね


紀尾井町といえば、明治11年(1878年)5月14日
当時の内務卿、大久保利通が暗殺された場所ですが


今月の最後は大久保利通と大名屋敷についてのエピソードを一つ
(司馬遼太郎著「この国のかたち 三」の「東京遷都」より)


明治維新の立役者だった大久保利通は、首都をどうするか悩んでいたそうです


京都はもともと狭い盆地であることに加え、朝廷・公家・寺社の町であり
大政奉還後の新政府にとって、非常に手狭になっていたそうです


そこで大阪へ遷都しようという議論が起こりますが、その時に一通の投書


その要旨は以下の通りだったと伝わっています
 -これからは蝦夷地(北海道)が重要になるが、大阪からは遠い

 -大阪も郊外に広い平野がなく、今後の広がりが期待できないが
  江戸は郊外に広大な平野を持っている

 -大阪はもともと商都であるが、江戸は帝都でなければ衰退してしまう


そして一番の理由は
 -大阪に帝都を建設するのであれば、一から作らねばならないが 
  江戸には官衙(政府庁舎)に転用できる建物が数多く存在している


そう、今月の冒頭に書いた「東京の街づくりに貢献した江戸の遺産」
すなわち「大名屋敷」そのものなのですね


現在の防衛省は尾張藩徳川家上屋敷、外務省は福岡藩黒田家上屋敷
「赤門」が有名な東京大学は、加賀藩前田家上屋敷でした


ところで「赤門」というと、東大赤門の専売特許のようですが、さにあらず!
「将軍家息女(御守殿)」が嫁いだ大名家には、その記しとして「御守殿門」


即ち「赤く塗った門」が建立されていました
ただこの御守殿門、焼失後に再建されることは許されなかったため


文政10(1827)年に、12代加賀藩主・前田斉泰に輿入れした
11代将軍徳川家斉の第21女・溶姫のために築かれたのが現存しているのです


さて、大久保への投書には前島来輔と署名されていましたが
この人こそ、後に郵便制度を作った前島密、その人であったそうです


前島の構想力と着眼点、大久保の決断力がその後の東京を形作り
広大な大名屋敷が、新しい時代に新しい役割で応えた、というところですね


今月もさいごまでおつきあいいただき、ありがとうございました
また来月、お会いいたしましょう♪
by dairoku-higashi | 2016-01-05 21:44 | 江戸紀行
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