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江戸紀行/「いよいよ夏、大川の川開き」江戸のグルメ紀行(後編)

皆さま、こんにちは。
広報委員の木村でございます


今年は早くから暑い日が続いていますが
皆さまいかがお過ごしでしょうか?


今よりは涼しかったと思われますが
江戸時代もこの時期から「本格的な夏」が始まっていたようで


毎年5月28日(旧暦 新暦6月25日頃)には「隅田川(両国)の川開き」が
行われていて、この日からがいよいよ夏本番、という感じだったようです


8月28日(同 9月20日頃)までの川開き中には、隅田川(大川)いっぱいに
大小さまざまの「納涼船」が繰り出し、その納涼船のお客目当てに
「酒や冷水」「餅や饅頭」「冷麦や蕎麦切」などの物売り船が出張り


川面は船で埋め尽くされるようだった、とも伝えられています


井原西鶴「諸艶大鏡」では、座敷が九間(約16m)もある大型船もあり
一日チャーターで5両(約25万円程度)したと伝えられています


現在の屋形船が貸切の場合、1名1万円程度で20名からという相場を考えれば
現代も江戸時代も、こと遊覧船の料金はあまり変わっていないようですね


隅田川といえば花火大会が有名ですが、こちらは享保18(1733)年に
時の将軍、徳川吉宗が流行病・大飢饉などの犠牲者の慰霊を目的として
川開きの日に始めたものとされています


花火の掛け声で有名な「たーまーやー」「かーぎーやー」は
ご存じのとおりこの花火を担当した花火師の屋号で


両国橋より上流で打ち上げる「玉屋市郎兵衛(両国広小路)」と
下流で打ち上げる「鍵屋弥兵衛(日本橋横山町)」


それぞれの花火に掛けられた、見物客よりの賞賛の掛け声が由来です


ちなみに「玉屋」失火の咎で、天保14(1843)年に廃業してしまったので
「鍵屋」のみ、現代まで宗家鍵屋として続いています


また火薬製造の禁がなかった御三家や仙台堀に屋敷のあった伊達家などが
従来の「合戦用の狼煙や信号弾」を元にした花火などを行い
武家花火と呼ばれ、こちらも江戸庶民に親しまれていました


さて、前置きが長くなりましたが、今回は「江戸のグルメ」の後編
「江戸庶民のグルメ」についてお話しいたします


江戸のグルメと言えば、やっぱり「江戸前」ですね


ところで、現在は鮨について用いられる「江戸前」という言葉
元々は違うものを指していました


本来は「鰻」に用いてた言葉で、深川や神田川で獲れた鰻に用いていて


それが転じて、江戸の近くの海、品川や芝の海で獲れた海産物を
指すようになったと言われています


有名な落語「芝浜」も、主人公の大酒のみが仕入れに行くのは
「芝の雑魚場(魚市場)」


「早く着き過ぎて海岸で財布を拾う」
ここからがお話の始まりですね、現在の芝あたりは江戸前の魚市のひとつでした


鰻については、平賀源内が広めたという俗説もありますが
一般的には蒲焼調理法が確立されて、爆発的に広がったといわれています


背開きにして白焼き後にいったん蒸して
味醂入りタレをつけて再度焼く、という現在の関東風の蒲焼が確立されたのは


文政年間(1830年)頃と言われています


気になる当時の価格は、鰻蒲焼で200文、鰻丼が100~148文と言われています


現在の価値でいうと…
蒲焼が2,500円くらい、鰻丼が1,250~1,850円といったところでしょうか


さて、現在の「江戸前」といえば鮨の事を指しますが
江戸前鮨の源流は文化年間の初め(1804年)頃


深川本所の鮨屋「松の鮨」「華屋与兵衛鮨」が握り鮨を考案


その後、それまでの「上方の押し鮨」を席巻して
現在の江戸前鮨になったと言われています


気になるその頃の「鮨のネタ」は
「鶏卵焼き」「鮑」「鮪赤身」「海老そぼろ」「小鯛」「小肌」「白魚」など


有名な話ですが「鮪トロ」は
「猫跨ぎ(猫すら食べない)」と言われ、用いられていませんでした


価格は、当初こそ1つ「50~60文(600~700円)」するのもありましたが
天保の改革以降、1つ「4~8文(50~100円)」が一般的だと伝えられています


当時の鮨屋は屋台が一般的で、屋根付きで定位置に出す「屋台見世(店)」が多く
各町に鮨と天ぷらの屋台が3~4あったと伝えられています


座って食べる高級料理、というよりも現在のファストフードに近い感じで
昨今の東京でも多くなった「立食いの鮨」というイメージなのかもしれませんね


天保年間(1830年)頃からは、「握り鮨」に加えて「稲荷鮨」の屋台も登場
「握り鮨」「天ぷら」「稲荷鮨」が屋台見世の代表的なものとなったようです


話の出た「天ぷら」ですが


元々は西洋(オランダ)伝来の料理であることは有名ですが
17世紀初め頃に、魚のすり身に衣をつけて揚げた「つけあげ」というものが登場


17世紀半ば頃に、魚肉そのものに衣をつけて揚げたものが登場
命名には諸説ありますが、「天麩羅」という名で広まったと言われています


代表的なネタは「穴子」「小肌」「貝柱」「スルメイカ」などを
串に刺して食べたそうです


昨今の偽装騒動で有名になった「芝海老」、これも代表的なネタのひとつでした
価格は「4文(50円)」だったそうで、庶民の気軽な食べ物のひとつだったのですね


さて外食で、一番身近な食べ物と言えば、皆さまご存じの「蕎麦切」


時代劇などでも「店(見世)」に加えて
「担ぎ屋台の蕎麦」がよく登場していますが


奉行所の調査では万延元(1860)年頃には店だけでも3,763軒あったとのことです


現代の東京都で3,800軒程度と言われていますので
100万人都市であった江戸時代


人口比では現在の10倍くらいの蕎麦屋があったということになりますね


屋台蕎麦は「夜鷹蕎麦」などと言われて
夕方から夜にかけて商いしていたようです


蕎麦切の価格は「12~16文(150~200円)」と言われており
現在にも伝わっている「二八蕎麦」という名称


諸説ありますが「蕎麦粉(8割)とつなぎ(2割)の割合」の他に
価格「16文(二×八)」が由来という説もありますね


ところで、実際の屋台がどんなイメージだったのか?


復元ですが江戸深川資料館にありますので
機会があれば一度訪ねてみてはいかがでしょうか
http://www.kcf.or.jp/fukagawa/edo/hukagawa3.html


と、ここまで書いたところで、かなり長くなってしまいました…


高級な料理茶屋や江戸庶民の普段の食事についても
書きたかったのですが、それは、また次回にいたしましょう


次回は「江戸のグルメ 完結編」にしたいと存じます
今回もさいごまでお読みいただき、ありがとうございました!
by dairoku-higashi | 2014-07-06 07:06 | 江戸紀行
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