人気ブログランキング | 話題のタグを見る

江戸紀行/意外と知らない、大名行列と参勤交代

皆さま、こんにちは
広報委員の木村でございます


寒い日が続いていますが、三月三日の雛祭りを過ぎ
日一日と、春に向かって歩んでいるな、と実感する今日この頃です


さて、お正月は「江戸城のお正月」を少しお話しいたしましたが
本題に入る前に「江戸城の雛祭り」を少しご案内しましょう


諸大名には予め「登城日」が定められており、お正月以外にも
「月次(つきなみ)御礼(朔日と15日の定期登城日)」や「八朔(八月朔日のこと)」
 ※八朔は「徳川家康関東入部の日」で幕府の祝日とされていました
 ※朔日(さくじつ)とは月初一日の事で、晦日(みそか)の逆ですね


そして、五節句(人日・端午・七夕・重陽、そして三月三日の上巳)などが
登城日として指定されていました


上巳の節句、つまり今の「雛祭り」では、奥向では雛人形を飾り
白酒を振る舞い、諸大名は登城して将軍にお祝い言上したと伝えられています


登城する大名は、行列を仕立てて江戸城に向かいますが、格式により
「下馬先」「下乗」「中之門」等で、供連れの制限が行われていました


一般的な家来衆は下馬先まで、ということが殆どで、家来衆は主人である
大名が戻ってくるまで、下馬先で待っていたとされています


そういった中での彼らの噂話(特に人事の話が多かったようですが…)が
今日も使われている「下馬評」の語源だとも言われています


さて、有名な「桜田門外の変」が起きたのは、雪が降った三月三日
つまり「上巳」のお祝い登城に向かう際の出来事だったのです


旧暦三月三日は新暦ですと三月二十四日今年も雪がすごかったですが
この日も季節外れの大雪が降ったと伝えられています


井伊直弼は、私たち第六東支部のある世田谷区、大谿山豪徳寺に眠っています
一般公開されていますので、何かの機会に訪れるのもいいかも知れません


さて、ちょっと話が横道にそれましたが
ここからは本題、大名行列についてお話ししてまいりましょう


皆さんがイメージする「大名行列」はどのようなものでしょうか?


「下(した)ーにー、下に」と掛け声を掛けて進んでくる行列
よく時代劇などで見られる行列ではないでしょうか


おなじみの参勤交代の風景ですね


ただ、さすがに数百キロを徒歩で歩き、山を越え、川を渡りという難行路
ずっと「下(した)ーにー、下に」と、威儀を正してやっていては大変ですね


概ね、宿場町・城下町を通過する際や、お国入り・江戸入りの際だけ
掛け声を掛けて行列は進んでいた、と伝わっています


また、掛け声自体も御三家のみに許されていた、とも言われています


ところで、参勤交代といえば…
 -大名は国許(領地)と江戸に一年交代に住み
 -大名は江戸藩邸の維持費用に加えて行列経費がかさむ


江戸幕府の大名統制(経済力削減)策の一環、と歴史の事業では習いましたが
実際のところは、少し違うようです


もともと、参勤の「勤」の字は、もともとは「覲(まみえる)」という字を使い
「参上して相まみえる」という意味だったと伝えられています


大名統制策としての側面は、もちろん強いのですが…


「将軍と大名の主従関係を天下に示す」幕府側の狙いと
「将軍に対してご挨拶してお近づきを得る」大名の思い


というもので成り立っていたようで
決して労役的な意味合いではなかったのですね


そのため、武威・威信を示したい大名が行列を大規模、華美にしたり
ということも多く「武家諸法度(寛永十二年)」などで、幕府が触れを出して
適正化を図る、ということもあったようです


「大名の経済力を削ぐ」というのは、結果であって目的ではなかったようです


さて、その「参勤交代の大名行列」


「三百諸侯(実際には三百弱の藩ですが)」と呼ばれていた大名たちが
いつ江戸に来て、いつ帰ったのでしょうか?


だいたい、数十人から数百人、多いと三千人近い供揃えで動く
「参勤交代の行列」


いっぺんに動いては、どの街道筋も大混雑、大混乱になってしまいますね


東海道有数の宿場で箱根越えを控えた「小田原宿」も宿屋は95軒でしたし
そもそも大名が泊まる「本陣」も4軒しかありませんでした


そのため、隔年で(干支を使って表の年・裏の年)分ける「年の組み分け」
更に江戸出府・帰国の月が三月・四月・五月・六月と細かく分けられていて


同格式の家がうまく分散するように、細かい配慮がなされていたようですね


しかし、どうしても「行列のすれ違い」などが起こることもあったようで
その時は刀が触れないように左側通行で進み、藩主は駕籠の御簾を上げて
軽く会釈した、伝わっています


また、西国筋の大名、佐賀藩や福岡藩、長崎周辺は「長崎(異国)警護」のため、
参府期間が三ヶ月だったり対馬藩は三年に一回、蝦夷地は遠方ということもあり
六年に一回だったとのことです


関東に近い大名は半年交代(八月参府・二月御暇や十二月参府・八月御暇)もあり
様々だったようで、帰国中以外の大名が一堂に会するのはお正月近辺だったのですね


あと、幕閣在任中の譜代大名も参勤交代は免除(当然と言えば当然ですね…)で
御三家のなかでも、江戸に近い水戸徳川家は「江戸定府」


つまり参勤交代はなく「ずっと江戸藩邸にいる」という感じでした


俗説であり、実際に言われていたかは定かではないのですが
ドラマで有名な「水戸黄門」おなじみのセリフ「前(さき)の副将軍」
 ※黄門とは中納言の唐名で、水戸家は中納言に任じられていました


これは将軍を常に補佐している、江戸定府から言われていたと伝えられています
そのかわり、将軍家世嗣断絶時は尾張家か紀州家から出すことになっており
水戸家はあくまでも補佐役、という位置づけなのは有名な話ですね


さて参勤交代の準備は一年前から始まり、幕府の許可・宿駅手配・挨拶言上など
さまざまな準備を経て、だいたい2週間から1ヶ月かけて行列で移動
到着してからも様々な行事、後始末を経て、気づくと「もう来年の準備が始まる」


つまり、一年を通しての大名の江戸参府やお国入りの準備・実施が
江戸時代を通じて営々と行われていたのですね


こういった行列が定期的に通ることで、街道筋は発展し、文化伝達や
人やモノの動きに大きな影響(効果)を与えたのは、言うまでもありません


ちなみに、先ほど大名が泊まる宿所を「本陣」と書きましたが
これは戦国時代の合戦場の「本陣」の名残で、決してお城とかではありません


ここで面白いのは「宿代の支払い方」です


本陣に到着すると、大名は「本陣の主(地元の有力者)」から
酒肴や特産品の献上を受けます(戦国時代と同じ感じですね)


で、いざ支払の段になると、そこは「御大名らしく」ということで
「献上品に倍する品物」などを遣わしたとされています


あくまでお金のやり取りではなくて、というあたりが武士たる所以ですが
財政が厳しい藩などは献上品辞退、ということもあったようです


ちなみに参勤交代のコストについて、お話ししましょう


松平不味公で有名な松江藩、不味公晩年の「文化年間(1804~1818年)」では
「東海道経由 21泊22日」のコストは「約4,000両(年により増減があります)」


 「1両=4,000文」「かけ蕎麦が16文だった」と伝わっていますので

 現代の「かけ蕎麦を200円(少し安いですが…)」として計算すると
 「1文=12.5円」

 現在の貨幣価値ですと
 少なく見積もっても「1両=50,000円」くらいでしょうか


4,000両で、今の換算価値で2億円近く掛かっていたのですね…
現代でいえば、ジャンボジェット数機をチャーターする感じなのかもしれません


ちなみに「就任後初のお国入り」などの際には、さまざまな行事もあり
気合を入れたのでしょうか、松江藩でも8,000両近くかけていたとのことです


また、こういった道中経費以外にも将軍家・幕府高官との献上・挨拶などもあり
文化五(1808)年の加賀前田家では3,300両ほど掛けていたと記録が残っています


大名の格式を維持するのも楽ではなかったのですね


「参勤交代」の細かな実際についてや、江戸時代の公的な旅
「朝鮮通信使」「琉球慶賀使・謝恩使」「オランダ商館長の江戸参府」は
いろいろ面白いお話もあるのですが、またの機会にいたしましょう


少し長くなりましたが、今回もさいごまでお読みいただきありがとうございます
また五月にお会いしましょう!
by dairoku-higashi | 2014-03-06 06:06 | 江戸紀行
<< 月刊「せせらぎ」電子版 −Vo... 月刊「せせらぎ」電子版 −Vo... >>